アルナーチャラ便り Vol.14

2019年11月1日号

魂の里帰りと女神さまの祭り

 人々がアルナーチャラにやって来ると、みんな幸福になり心の平安を得て、ここを離れたくないと言います。実に、ここは魂の安らぎの場所なのです。アルナーチャラは私たちの魂の源泉です。ですからここにやってきたら、もう、なにもすることなくただリラックスして魂を安ませることです。

 瞑想や「私は誰か」もここではお休みにして、のんびりしていれば自然と楽しくなります。私たちの本性が、源泉が幸福なのですからここに帰ってくることは実家に帰ってくるようなものです。魂の里帰りです。何も考えない、何もしない。修行というアイデアは捨てましょう。努力することを止めましょう。ゆっくりと足腰伸ばして休みましょう。来訪者にとっては、ここは天国です。ああ!幸せ!!

  その幸せのさなかに女神ヨーガアンビカ(ブロンズ像)がナヴァラートリのお祭り、女神さまの祭りの主役として、母堂のサマーディーの祠から輿に担がれて出てこられ、9日間の9変化を演じるマンダパムに落ち着きます。女神は毎夜きらびやかなシルクのサリーと宝石で飾られて、ある夜はクリシュナ、ある夜はミーナークシ、ある夜はドゥルガーに変身して9日間が過ぎます。見る者の内側から引き出された美が女神に投影され、それぞれがそれを楽しむのです。ある人は真正面から、全体の調和ときらびやかさを楽しむ人もいれば、左斜めから、お顔の表情の何とも言えない微笑を楽しむ人もいます。銅像が微笑むというのは変な話です。ですからそれはその人自身の投影を見て楽しんでいるということです。このようにして9夜は興奮と熱気の内に終わり、女神ヨーガアンビカは神殿の中に戻られます。今年のお祭りは9月29日から始まり10月9日に終わりました。

(ナヴァ:9、 ラートリ :夜 サンスクリット語)

(文責:S)

ディパワリ フェスティヴァル

 インドで一番大きなお祭りがディパワリ(ディワリ)です。今年は10月27日でした。この日は国中がディパム(オイルランプ)をともして祝われます。なぜディパムをともして、何を祝うのか?一般には、人々を苦しめた悪魔ナラカを殺したクリシュナの勝利を祝うお祭りです。

 この日ラマナアシュラムでは、早朝、5:00に帰依者たちがバガヴァ―ンと帰依者ムルガナ―によって作詞されたディパワリソングを謳ってお祝いします。その詩は、なんと真我実現を秘めた意味合いがあるのです。ラマナ帰依者たちによって謳われて初めてその真意が理解できるというものです。今回、ムルガナーの著作グルヴァチャカコバイからこの詩の意味を訳してみました。

(181)人々はクリシュナが悪魔ナラカを滅ぼしたと言います。実のところ、ナラカは忌まわしい肉体を「私」だと誇示する「自我」なのです。このナラカの、自我の本性を見つけ出し、破壊したのが実に殺し屋、クリシュナなのです。

(182)新月の一日前(ナラカチャッツルダシ)にナラカの征服を象徴して吉兆の沐浴をするのは、ナラカ(自我)の住処を探し出し、ナラカを殺した後で真理の水で沐浴するという意味です。

(バガヴァ―ン)ナラカというのは、忌まわしい肉体を「私」だと思い込み悲惨な地獄の世界を統治する者だ。それゆえ「どこからこのナラカがやって来るのか?」という知識の円盤を投げて、ナラカを殺すものがクリシュナだ。実にナラカが殺されたその日が吉兆のディパワリだ。

(183)ナラカは「私」を悪臭のする肉の塊、肉体という地獄として捉えたため死刑を宣告されたのです。一方、ディパワリというのは、ナラカ(真我の反映)の源を探究して破壊した後に現れる、至高の真我の永遠の光輝です。それがディパムです。

(バガヴァ―ン)吉兆のディパワリとは、実に地獄である悲惨さの原因、即ち肉体の牢獄に「私」を閉じ込めたために、自分自信を破壊することになった大罪人、ナラカを探し出し破壊することで、真我として輝くという意味だと明確に理解しなさい。

(翻訳:A.S.)

バガヴァーンの珠玉の言葉

デーヴァラージャ・ムダリアール

誰一人として至高者の目を逃れることはできません。バガヴァーンを一人の肉体として、また自分を別の肉体として見なしているので、二人の別々の存在を見るのです。それで「私はここを去って行く」などと言うのです。あなたがどこにいようとも、私を離れることはできません。

シュリー・ラーマクリシュナは、敬慕する聖母カーリーの像が生きているのを見た、と言われています。その生命は、誰にでも知覚できるものではありません。その生命力は彼自身によるものだったのです。あたかも彼の外側にありながら、内側に引き込んでいるかの様に現れていたのは、彼自身の生命力だったのです。神像が本当に生きていたのなら、誰もがその姿を見たはずです。しかしまた万物が生命に溢れている、というのも事実です。多くの帰依者が、シュリー・ラーマクリシュナと同様の経験をしています。

キリストが自我で、十字架が肉体です。自我が磔刑(たっけい)に処されて滅びると、そこに生き残るのは絶対存在なる神です。「我と我が父はひとつなり」。この栄光ある生存こそが、キリストの復活と呼ばれるものです。父なる神はイーシュワラを、人の子はグルを、聖霊はアートマンを表しています。

神の御名と神はひとつです。「始めに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった」と聖書にも書かれています。

ラーマの名前の「ラ」は真我を、「マ」は自我を表します。「ラーマ、ラーマ」と繰り返すと、「マ」が「ラ」に溶け込んで消えて、「ラ」だけが残ります。この境地においては、ディヤーナ(瞑想)への意識的な努力はありません。それでも常にディヤーナがあるのは、それが私たちの本性だからです。

ヨーギはクンダリニー(蛇の力)をスシュムナー(ヨーギーの神経経路)の中に上昇させることを明確な目的としているでしょう。ギャーニはこれを目標とはしませんが、生命力をスシュムナーに送り込んで、チットジャダグランティ(意識のあるものとないものの結び目)を断ち切るということにおいて、両方とも同じ結果に至るのです。クンダリニーは、アートマン、真我、シャクティの別名です。クンダリニーが肉体内にあるように話すのは、私たちが肉体に限定されていると思い描いているからです。しかし実際にはクンダリニーは内側にも外側にもあって、真我、シャクティに他ならないものなのです。ギャーナ・マルガにおいては、真我探求によって心が真我に溶け込むと、真我、そのシャクティ、あるいはクンダリニーは自動的に上昇するのです。

心の平安こそが、真の解放ムクティです。それならば、心の活動に頼ることで得られるシッディ(奇跡の力)を目指す者が、どうやって心の騒ぎが全て止まった状態であるムクティに至れると言うのでしょうか?

欲望と嫌悪を避けなさい。俗事に心が関わらないようにしなさい。できるだけ、他人の問題に関わらないことです。他者に与えることは、実際自分に与えることなのです。この真理を知るなら、他者に良いことを与えずにいられるでしょうか?

自我が現れると、全てが現れます。自我が真我に溶け込むと、全てが溶け込みます。謙虚になるほど良いことなのです。

最高にして最強のディークシャー(イニシエーション)は、ダクシナームールティが授けていた沈黙によるものです。触れること、一暼によるディークシャーは、それに劣るものです。マウナ(沈黙)は、誰のハートも変えることができます。

「亡くなったグルに勧められた神の御名を繰り返し唱え続けるべきでしょうか? それとも探求ヴィチャーラの道へと切り替えるべきでしょうか?」と帰依者に尋ねられたバガヴァーンは、1939年9月号の『Vision』(アーナンダアシュラム発行の月刊誌)に掲載された記事「聖者ナームデーヴによる聖なる御名」に言及した。そこには、「神と神の御名は同じものだ」と説明されていた。

太陽は世界を照らし出しますが、アルナーチャラの太陽はあまりにまぶしいので、そこに世界は見えません。途切れることない輝きだけがあるのです。

「人間としての誕生が最上で、人間でいる間に真我を実現しなくてはならない」というのは、必ずしも本当ではありません。動物でさえ真我実現に至ることはできるのです。

自分を改める以前に、国を改革しようとする必要はありません。人が最初にすべきことは、自らの本性を悟ることです。その後で国の改革を望むのならば、是非とも取り組みなさい。スワミ・ラーマ・ティールタは「改革者を求む。ただし、まず自らを改革した改革者を」と言って募集しました。

「“A”は、神の最初の名前である」と『ブリハダーラニヤカ・ウパニシャド』には書かれています。サンスクリット語の最初の文字は“A”で、最後の文字は“Ha“なので、“Aha”は始めから終わりまでの全てを含んでいます。“Ayam”という言葉は、自ら輝く自明の存在を意味するものです。 Ayam, Atma, Ahamは、全て同じものです。聖書にも、「“I AM”は、神に与えられた最初の名前だ」とあります。         

私は手足を大の字に伸ばして横たわると、死の場面を心に思い描きました。そして肉体が亡くなって火葬されても、私はなお生きているだろうと悟った時、私の中に生じたアートマンの力とも言える力に捉えられたのです。それをもって私は生まれ変わって、新しい人となりました。その後は、好きも嫌いもなくなって、すべてのことに無関心になりました。

沈黙から想念が生まれて、想念から自我が生まれて、自我から言葉が生まれます。ですから、言葉に効力があるとすれば、その源である沈黙にはどれほどの効力があるでしょうか?

神の御前で樟脳を燃やすカルプラ・アーラティは、光によって心を焼き尽くすことの象徴です。聖灰(ヴィブーティ)は絶対者シヴァで、朱色の粉(クムクム)はシャクティを表しています。

この丘アルナーチャラは中が空洞になっていて、そこに町(複数)や通りがあると、『プラーナ』には書かれています。私もまたそうしたものをヴィジョンで見たことがあります。ハートは空洞である、と書物にはあります。しかし中に入ってみると、光に満たされていることが分かります。同様にこの丘も光に満ちているのです。洞窟などは、その光に覆われているのです。

霊的な目的達成のために定められた手段である慈善行為、苦行、犠牲、善行、ヨーガ、バクティなどと、その目的そのものである天国、至高の目標、平安、真理、恩寵、静止状態、死なき死、真の知識、放棄、解放モークシャ、至福などと様々に称されているものはすべて、“肉体が真我である”という妄想から自由になることに他ならないのです。

自分をこの卑しい肉体と見なすのを止めて、永遠の至福である自らの本性を悟りなさい。肉体をなおも気遣いながら自己を知ろうとするのは、筏(いかだ)の代わりにワニに乗って流れを渡ろうとするようなものです。

真我ならぬものを望まないことが無執着ヴァイラーギャです。真我の内に在ることがギャーナなのです。両方とも同じことです。                             

ラマナ・ぺリヤ・プラーナム

T.K.スンダレーサ・アイヤール

バガヴァーンの古くからの帰依者達の話に接することで、我々も彼らの足跡を辿ることになる。真我なるアルナーチャラに再び溶け込んだ彼らに、こうしてまた一歩近づくのだ。 ヴィシュワナータ・スワミ、クンジュ・スワミ、アンナーマライ・スワミなどの古くからの帰依者から話を伺うと、私は沈黙の法悦状態へと溶け込んでいく。この恍惚を味わうには、「非実在から実在へと注意を移しなさい。非実在とは心身が結びついた複合体とこの世のことだ」 というバガヴァーンの言葉に耳を傾けるだけでいい。 この輝かしい帰依者達に倣って、 想念という非実在から、 不滅の存在に生きるという実在へと、注意を切り替えようではないか…

つづきはラマナ・ペリヤ・プラーナムへ

Yoga Vasishtha

ヨーガ・ヴァーシシュタ 至高の真我

(最終回)

ヴァシシュタは語り続けた。

ラーマよ。意識を時に応じて外向的にしつつ、努力なしに今この瞬間を生きなさい。心が過去や未来に結びつかないとき、それは無心となる。もしあなたの心が瞬間から瞬間へと、「今、あるがまま」にとどまり、一瞬一瞬、即座にそれを棄て去れば、心は純粋な無心となるのだ。

そして、いつも適切な行為をしなさい。だが、行為や、想念や、物事に執着してはならない。天の国にも地の国にも、いかなる方角にも、外的関係性にも、内的感覚の自然な働きにも、生気にも執着してはならない。頭の中にも、口の中にも、眉間にも、鼻の先にも、眼の中にも、暗闇や光にも心をとどめず、ハートの洞窟にさえとどめてはならない。目覚めの状態にも、夢見や眠りの状態にも心をとどめず、広大で純粋な空間にさえとどめてはならない。さまざまな色にも、運動や静止の状態にも、始まりにも、中間にも、終わりにも執着してはならない。遠くや近くにも、前にも、対象物にも、自己にも心をとどめてはならない。感覚の体験や、倒錯した幸福状態、観念や知覚に心をとらわれてはならない。

心を純粋意識の中に純粋意識としてとどめなさい。そして、この世の物事の虚しさと無価値さに完全に気づいていながら、わずかばかり想念の動きを外側に向けていれば、それでいいのだ。このようにして、すべての執着が解き放たれたとき、ジーヴァはジーヴァではなくなる。

そのあとは、行為しようと無為でいようと、起こるべきことが起こる。そのような無執着の状態にあるジーヴァは、行為の結果に縛られない。対象についてのわずかな想念さえ放棄したジーヴァは、至高の平安の中に安らいでいる。

 至高の主は身体の内に宿る。身体が変化しても変化せず、身体が死んでも死ぬことはない。あなたが「私は身体に属する」あるいは「身体は私に属する」という偽りの観念を棄てるとき、「私はそれを放棄する」「私はそれを放棄しない」あるいは「私はこれをした」「私は今これをする」といった表現はすべて意味を失う。

 解脱に達した人は、絶えず行為しているように見えながら、実は何もしていない。行為をしないことで、無為の境地に達するのではない。この無為という真実が、あなたを体験から解放するのだ。種を蒔かなければ、収穫はあり得ない。「私は行為する」や「私は体験する」という観念がなくなれば、静寂が残る。その静寂の内に揺るぎなく確立されたとき、解脱は起るのだ。

 そのような解脱に達した人にとって、獲得することや放棄することに何の意味があろう? なぜなら、解脱は「主体と客体」という観念が消え去ったときにのみ起こるからだ。あなたのように解脱を成就した人は、あたかも常に深い眠りの状態にいるかのように、この世界の中で生き続けるのだ。

ラーマよ。この世界は純粋な幻想以外の何ものでもない。この世界は単なる観念でしかない。この世界の中に現れる意識の対象物はただの観念なのだ。観念化という誤りを拒絶しなさい。そして、観念から自由になりなさい。真我の源にとどまることで平和になりなさい。

光に向かって振り向けば、闇は消え去るように、もしあなたが真我の光に向かえば、無知も消え去る。真我の知識への切望が自然に起らないかぎり、この無知または精神的条件づけは世界の現れを果てしなく投影し続けるだろう。だが光を見ようとすると影が消え去るように、心が真我の知識に向かえば無知も消え去るのだ。

この無知あるいは精神的条件づけとは欲望のことだ。そして、欲望が消え去ったときが解脱なのだ。それは心の中に想念の動きがなくなったときに起こる。

概念や想念が空に青さを「見る」ように、心は世界を実在と見る。だが、空に青さはない。視覚の能力の限界が、空を青だと見るのだ。同じように、世界の現れを知覚するのは思考の能力の限界に他ならない。この世界の現れは錯覚だ。心の中でそれについての考えを起こさせないほうがいい。「私は迷っている」と考えることで、人は苦悩する。そして、「私は気づいている」と考えることで、人は至福に向かうのだ。

束縛と解脱の唯一の原因は、意識の動きにある。これに気づくことが、その動きを終焉させる。

自我はそれを観察した瞬間に、動きを止める。なぜなら、それはもはや支えを失うからだ。そうなれば、いったい誰が誰に束縛されるというのか? あるいは誰が誰によって解放されるというのか? 

これが無限の意識である至高の存在の本性だ。

自我は観察することによって、その動きを止める。絶え間なく想念の動きに気づいていなさい。

努力しなければ得られない体験は望まず、すでに手にしている体験に満足すること、これが賢者の本質だ。どんな方法であろうと、もし感覚的快楽への欲望から心を引き離せるなら、妄想の海に溺れずにすむ。内側や外側に何があろうと、手に入れようとしたり、手放そうとしたりしてはならない。

ラーマよ。苦悩から解き放たれなさい。二元性から自由になりなさい。真我の内に揺るぎなく確立されなさい。自分自身の幸福への関心さえも棄て去りなさい。確固とした心で、内面の平和を保ちなさい。心に悲しみを抱いてはならない。

内なる沈黙の中に安らぎなさい。自己意思を持たずに、独り在りなさい。心と感覚に打ち勝って、勇敢でありなさい。求めずして得られたものに満足して、無欲でいなさい。何を得ることも何を棄て去ることもなく、努力なしに生きるがいい。

精神的な逸脱と人を盲目にする幻想の汚れから自由になりなさい。あなたの真我の内に安らぎなさい。そうして、すべての苦悩から自由になるのだ。満ち満ちた海のように無限に広がり輝く真我の中にとどまりなさい。満月の祝福に満ちた光のように、 真我の中で真我として在ることに歓喜しなさい。

ラーマよ。ものを得ようとする欲望と、望ましくないものを避けようとする苦悩以外に束縛というものはないのだ。望ましくないものを避けようとすることと、欲しいものを得ようとすることをあなたの目標としてはならない。その両方の態度を棄て去ったあとに残るものの中に安らぎなさい。「これは好きだ」や「これは嫌いだ」といった思いが起こらなければ、心は現れない。それが至高の平和なのだ。

観念、想念、想像、記憶 ——— これらが心を構成している。これらが消え去れば、どこに心が存在できよう? 「成ることbecoming」のない状態に確立された人が、「成ること」に変化することのない「それ」に瞑想して、ただ「ありのまま」を見るとき、心は無心になる。

客観的な現象として現れた世界という幻影を手放しなさい。繰り返される輪廻転生を止めるために、唯一の実在である意識に黙想しなさい。観念や知覚である対象化された意識を完全に放棄し、無限の意識に瞑想することで、存在するすべてのエッセンスである純粋意識を体験しなさい。そうすれば、必ずあなたはこの世界の現れと輪廻転生という大海を渡るだろう。

解脱に達するためには、どんな状況に置かれても、その状況に即した適切な行為をしながら、無執着の生を生きなければならない。これがすべての教えの要諦だ。

想念の動きを止め、その中に安らぎなさい。心を鎮め、知性を静ませて、唖や、聾や、盲目のように、真我の中に安らぎなさい。外の世界では適切な行為をし、内面ではすべてを放棄しなさい。心の存在が幸福であり、心の存在が不幸なのだ。だから心に気づかずにいなさい。

そして、すべてが終わっていくにまかせなさい。たったこれだけの努力で、このサンサーラは終焉するのだ! 快楽と苦痛に気づかずにいなさい。その二つの彼方にあるものにさえ気づかずにいなさい。そうすれば、あなたは不幸や悲しみから昇華する。たったこれだけの努力で、あなたは「無限なるもの」に達するのだ。

(翻訳 : IH)
ヨーガ・ヴァーシシュタ 至高の真我より抜粋

ETERNAL TALKS

至福

Q:瞑想していると、時々至福を感じます。そのようなとき、「この至福を感じている(体験している)のは誰か?」と自分自身に訊ねるべきでしょうか?

Maharshi:もし体験された至福が真我の真の至福なら、つまり心が本当に真我の中に溶け去ったのなら、このような疑いが起こることはあり得ない。質問自体が真の至福を達成していなかったことを現している。

(他の至福についての質問)

Q : ときおり、瞑想していると至福に包まれて涙が湧き上がってきます。

Maharshi : 至福とは常にそこにあるもので、来たり去ったりするものではない。去来するものは心の産物にすぎず、気にかけるべきでない。その体験が起ころうと起こるまいと、あなたがそこに存在していることはあなた自身が認めている。もし、あなたがその「あなた」を正しく認識したなら、そのような体験には何の意味もなくなるのだ。

ラマナサットサンガの勧め

 最近SRI MANI さんがシンガポールのあるサットサンでラマナサットサンガとはどういうものか話されたのでお知らせします。

 「一般に、ラマナサットサンガとは誰かがサットサンをするというものではありません。ラマナマハリシの臨在が感じられるスペースを創るということです。例えばマハリシの写真を飾り、参加者が沈黙のうちに心を静め、シュリラマナをハートで感じるためのスペースを創るということです。そのために、ヴェーダやパラヤナのオーディオの設定、トークス等のシュリラマナの教えの朗読を聞くことなどが助けになります。各個人の<存在しない問題>のSHARINGの場を創るということです。」

 このラマナアシュラムの意図を理解して、大分の佐藤夫妻が実践したサットサンガの様子を伝える手紙を紹介します。

shunyaさん

こんにちは。お元気ですか?
私達はインドから帰り1週間が経ちました。

昨日の新月の夜にお約束したラマナサットサンガをしました。

南インド料理のお店をしている友人のスペースを借りて、小さな台にバガヴァン写真にお庭のお花とお香を捧げた上映会場に計15人程の人が集まってくれました

バガヴァンを知らない方もいたので、私達がアルナーチャラに至った経緯を簡単にお話をして、頂いたDVD(沈黙の聖者)を上映しました。
その後30分弱の沈黙と、買って行った「私は誰か?」のイントロを少しだけ読んで終わりました。

このような機会に初めて触れる人もいれば、長くヨガなどで勉強されている方、様々でしたが、それぞれに何かを受け取っていたように感じました。皆さん物凄く集中して見ていたのが印象的でした。

サットサンガが終わって、皆さんでお店のカレーを囲んでディナーをしながら和やかに会は終わりましたが、そこは時間も空間も距離も超えてまるでアシュラムでお食事を頂いているような気持ちさえしました。

バガヴァンの恩寵が1人1人の中に、その場所に、ありありと臨在していました。

みんさんの状況は様々ですが、昨晩のサットサンガは全員が寛いで幸せでした。何に取り繕うこともなく、みなさんが笑顔でした。
その純粋性に触れ歓喜の涙を浮かべてる方もいました。

大分県はとても広いのですが、1時間半以上車で来てくれた友人は、自分の町でも出張サットサンガをしてほしいとのリクエストもありました。

希望者にと思い買って行った「私は誰か?」は一冊を残して全て無くなり、
私の小さな頭で初めてのトライなので数人くらいでと小さくと考えていたサットサンガは、想定を超えて全て完璧でした。
バガヴァンによって次へのステージに推し進められているようです。

「私は存在しません。全て神のみです」

次はまだ未定ですが、計らいにお任せするのみです!そして楽しみです!

佐藤泰裕 千恵子

Satsang連絡先: chie.manayoga@icloud.com